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2022.3.3 「私がアスレティックトレーナーになった理由」(前編)井澤ブログ

IZAWA

 

 

DMedical契約トレーナー:井澤秀典さんが、スポーツメディカルを中心にトレーナー活動の中で経験してきたことや日頃感じていることなどを綴っていきます。

 

スポーツの現場に携わる方やスポーツを楽しむ方々に参考にしていただける内容を毎月お届けいたします。

 

 

 

 

◇テーマ◇

 

『私がアスレティックトレーナーになった理由』(前編)

 

 

第1回目のブログでは、スポーツ現場における重傷事故に対する準備の重要性のお話しをしましたが、

 

そのような準備が本当に大切なのだと実感するようになるまでには、アスレティックトレーナーとしてこれまでの経験があるからこそなのです。

 

ではそもそも、なぜ私がアスレティックトレーナーという職に就いたのかをお話ししていきたいと思います。

 

 

※画像はイメージです。

 

 

■ラグビーとの出会い

 

水泳、野球、サッカー、陸上、バスケットボール・・・私が子供のころに行った競技です。

 

今のように競技に特化するようなことはなく、様々な競技を季節に応じてやっていたと記憶しています。

 

小学校4年生頃だったでしょうか?同級生が学校に楕円球を持ってきました。初めてラグビーボールに触れた瞬間でした、、、。

 

ルールもわからず、ただボールを投げ、スクラムのまねごとをしたり、タックルしたり。

 

ラグビーという競技に興味津々になりました。

 

その頃はラグビーができる環境にいなかったので、やりたい気持ちを抑え込み、中学卒業までは野球に没頭、ただラグビーのテレビ中継はよく視ていました。

 

そんなこんなで高校進学の際は、おぼろげに「高校へ行ったらラグビーやろう」と心に決め、ラグビー部のある高校を受験したのを覚えています。

 

そして高校入学後、紆余曲折はありましたがラグビー部に入部したのでした。

 

 

■ケガをしてわかったこと

 

高校二年の夏、ラグビーの練習試合で左足に「バキッ」という音がして激痛が走り、足が変な方向に曲がったなという感覚がありました。

 

私は、そのまま痛みをこらえ、足を引きずりながらしばらくプレーしていたのを覚えています。

 

試合が終わり帰宅するのですが、とにかく痛い、足がつけない、歩けない、、、。どうしよう。

 

今でこそRICE処置が当たり前のように施されていますが、そんな知識もない、氷すらない。痛みをこらえ、何とか家にたどりつきました。

 

 足を見てみると自分の足ではないのではないか?というくらい腫れ上がり、私の足首は全く動かせない状態になっていました。

 

「こりゃ大変だ、骨折れたな」というのが私の率直な感想でした。

 

※画像はイメージです。

 

 

翌日、病院に行きました、医師から「捻挫ですね、骨は大丈夫。ギプスで固定しましょう」

 

え?骨折してない?捻挫?? だって「バキッ」って音したよ、あの音何だったの???

 

たかが捻挫、されど捻挫。

 

それから約二カ月、知識のない私はラグビーができるようになるまで、どうしてよいのかわからないまま悶々とした日々を過ごしました。

 

病院でのリハビリといえば、物理療法(温浴治療と低周波治療)のみで、運動療法をした記憶はありません。

 

この時思ったこと

 

「ケガってどうやったら治せるのだろうか?ラグビーができるようになるために何をしたらいいんだろうか?」

 

ケガをしたのは自分、ケガを治すのも自分。誰かがやってはくれないのです。

 

 

■アスレティックトレーナーとの出会い

 

そんな時に当時ラグビー界では最強のチームであった神戸製鋼ラグビー部(現:コベルコ神戸スティーラーズ)の特集番組をテレビで見る機会がありました。

 

私はその番組内で運命の場面に出くわすことになるのでした。     つづく。

 

 

 

 

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