DMedical契約トレーナー:井澤秀典さんが、スポーツメディカルを中心にトレーナー活動の中で経験してきたことや日頃感じていることなどを綴っていきます。
スポーツの現場に携わる方やスポーツを楽しむ方々に参考にしていただける内容を毎月お届けいたします。
テーマ『私がアスレティックトレーナーになった理由』(中編)
第2回目のブログでは、私がアスレティックトレーナーになろうと思ったきっかけのお話をさせていただきました。
今回はその続きをお話ししていきたいと思います。
■アスレティックトレーナーとの出会い
高校二年生の私は、当時ラグビー界では最強のチームであった神戸製鋼ラグビー部(現:コベルコ神戸スティーラーズ)の特集番組をテレビで見る機会がありました。
その番組内で目にしたのは、選手の膝にテーピングを巻く一人の女性の姿でした。
「いったいこの人は何者?」
私は興味津々になりました。
自分がケガをしている状況下にあり、何か惹きつけられるものがあったのでした。
後日わかったことは、そのテーピングを巻いている女性は、日本人の女性第1号※NATA-ATCの田中啓子さんであり、アスレティックトレーナーという職業があるのだということでした。
※NATA-ATC:National Athletic Trainers’ Association-Certified Athletic Trainer
=全米アスレティックトレーナーズ協会公認アスレティックトレーナーで、米国医師会(AMA)によって医療業として認められています。
※画像はイメージです。
■アスレティックトレーナーになるためには?
あのテレビ番組の一場面を見た私は、「これだ!!」と思いました。
そして、アスレティックトレーナーになる!!瞬間的に、衝動的に決めてしまったのでした。
では、いったいどうしたらアスレティックトレーナーになれるのか?
「確かにテーピング巻いていたよなあの人は・・・」ということで、書店に駆け込み、テーピングの本を探しました。
そこで見つけたのが 『テーピング 』 (講談社スポーツシリーズ)鹿倉二郎著 という本でした。
鹿倉二郎先生は、ご存じの通り、日本のアスレティックトレーナーのパイオニアであり、日本人で初めてNATA-ATCになられた方です。
私は、出版元の講談社に電話をかけ、「すみません、手紙を書きたいので、著者の鹿倉二郎さんの住所を教えてください」と伝えました。
当時は、個人情報保護法もありませんでしたし、疑われるわけでもなくすんなりと鹿倉二郎さんの住所をゲットすることができました。
インターネットもない時代、手紙や電話、人からの情報というのが手掛かりとなりました。
私は手紙をしたためました。
「高校生です。将来、アスレティックトレーナーになりたいと思っています。どうやったらなれますか?」
そんな内容を書いたと記憶しています。
■手紙の返事はいつ届くのか?
鹿倉二郎先生からの返事を待つかたわら、自分でもいろいろと調べてみました。
親も協力してくれて、人づてに某プロ野球球団のトレーナーの方に話を聞いてくれたりしました。
そこでわかったことは、
・日本において、アスレティックトレーナーという公的な資格はない
・実際にスポーツの現場でトレーナーとして仕事をしている人は、鍼灸マッサージ師の方が多いらしい
・アメリカではアスレティックトレーナーは、公的な資格である
ここまでわかった時点で、私は「アメリカに行くか・・・」と本気で考え始めた高校3年生の春、ポストに手紙を投函して数か月、鹿倉先生からの返事は待てども待てども届きませんでした。
■「どうする井澤?」
そろそろ進路を本格的に決めないと思っていた時に、もう一つの選択肢があるということが、中学校の恩師からの話でわかりました。
「体育系の大学でそういう勉強ができるらしいぞ」この言葉に私の心は揺れました。
元々臆病者でしたから、一人でアメリカに行くなんてと臆していたところも正直ありましたし、何より出資元である両親があんまり留学に対して大賛成という感じではありませんでした。
そんなこんなで、180度方向転換し、日本の体育系の大学を色々調べるとともに、日本の大学の受験勉強も始めることにしました。
私が第一志望にしたのは、順天堂大学体育学部でした。
「医学部と体育学部の連携」という文言に惹かれた記憶があります。そして何より自宅から近い。
お世話になった体育の先生も順天堂出身者が多かった等々、志望するには十分な理由となりました。
高校三年生、冬、無事にサクラサク。
この時、鹿倉二郎先生からの返事のことは、すっかり忘れていました・・・。
■順天堂大学体育学部での4年間
今思えば、もっと勉強しておけばよかったと思うことは沢山あります。
解剖学、運動生理学、栄養学等々アスレティックトレーナーのための基礎的な学びは、当時のカリキュラムでも十分学ぶことができました。
ただ、そういった学びがアスレティックトレーナーにどれくらい重要であるかという認識を持っていなかった私でした。
なぜならば、前述のように資格化、制度化されていなかった当時の日本のアスレティックトレーナー。
何を学びどういった知識や技術が必要なのかをそもそもわかっていなかったのでした。
ですから、目先のことしか考えられず、目に入ってくるテーピングやストレッチ、見様見真似のマッサージ、、、。
これができればトレーナーなんだと勝手に自分の価値観を作っていたように記憶しています。
同じ志を持った先輩となんちゃって学生トレーナーをしていたな・・・と。
大学卒業と同時に運よく社会人アメリカンフットボールチームのトレーナーとして仕事を始め、トレーナーとしてのキャリアをスタートさせました。
(次回、後編へつづく)
<<<2023.2.3 #1 スポーツ現場のアクシデントに備える『EAP』の重要性
<<<2023.03.03 「私がアスレティックトレーナーになった理由」(前編)井澤ブログ
>>>2023.05.02 「私がアスレティックトレーナーになった理由」(後編)井澤ブログ